2010年3月21日日曜日

自主自立の第一歩は目標設定



 「目標」がないとどこに向かって自分を飛ばしていいのか、分からないので、モチベーションが高くならないのは当たり前です。

だから目標設定は重要ですが、会社や学校、あるいは世の中の仕組みでもって、半ば強制的に目標を持たざるを得ない場合は別にして、なんでもいいから自分で目標定めて頑張れと言われると、喜びよりも困ってしまうことが少なくありません。

たとえば学校に行くうちは、周囲からあれこれ目標を設定されます。それを嫌って不登校などしていると、自分で目標を定めないと誰も与えてくれなくなります。
そうすると、自由はいいけど、どんな目標を持っていいのか、決められなくなります。
つまり学校に行っても、行かなくても依存的なのです。自立心から学校へ行かないひともいるけど、ほとんどはそうではない。依存的とは実は従属的ということです。たいていの場合、態度は反対ですけどね。従属的とは自分で物事を決められない。だから自分の内でどうしようもできない混乱が起こります。でも世の中はどんどん個人の価値観を優先する社会に変化しています。自分で自分のことをケアできないひとは置いていかれます。

いまの日本はそういう時代です。結構、なんでも好きなようにすることができる。でもその好きって単なる瞬間的なわがままの積み重ねでしかなく。いざ自分で目標を決めて生きて行くとなると、それができない。
それができないから、テキトーにカッコいい仕事を目標として口走るけど、実際には追求していない。だからその仕事に就けないので、とりあえずアルバイトでしのいで行く。
それが常習化していくと、世間の方でも場当たり的な対応しなくなる。その背景には、自分で自分の目標が決められないという切実があります。
時には、考えただけでイヤになることもあります。

「目標設定」というテーマの正体は、「個人の自由」という命題と向かい合っています。
だからこそライフスキルのひとつとして目標設定スキルは重要視されています。

目標設定は、なんでもいいのですが、決められないのは、なにをするかよりも、自分を解き放とうとしない、放てない苦悩があります。放った途端、どうなるか判らない不安と恐怖。
実感はともかく、誰かに束縛されているわけでもなく、自分が解き放たない。

そんなとき、自身は目標を設定できない理由をあげます。

しかし持ち出してくる理由は、 自分の脚に重石をつけるような行為である場合が少なくない。つまり、自分で飛び立てないようにしているのです。
そのもっとも顕著な構文が、「たしかに○○○○、しかし○○○○、もし○○○○」で構成した否定あるいは否認のメッセージなのです。
この構文を使う限り行動は起こりません。

この行為を自分の意図だと思っているひとは少ない。
「しかし」と「もし」 を使って、その原因を周囲のせい、自分が属している共同体のせいにする。場合によって自分は無力、非力を訴える。

なにをするにしても制約もあり、条件がついてくる。その意味では周囲との折り合いが必要だけど、目標設定の段階ではフリーです。だからほとんどのひとは自分以外のせいにすることはできないはぜです。
だれも心に想うことは止められません。心に想っても、実際に実現できない目標なんか意味がないと想うかも知れません。でも、そうでしょうか?そこで人間の幸福って、本当に一体なにかが問題になります。
したいことを選んだら、したいことに自分の行動をあわせるしかありません。
目標や自分の行動に、したいことをあわせることも、周囲のひとを合わせることもできません。ひたすら、ひたすら、したいことに自分の行動をあわせます。そこで起こるプロセスそのものが人にとっての幸福なのです。



それには、自分を周囲のひとに合わせて、自分のしたくないことを目標にしないことです。自分を周囲のひとに合わせて、自分の自由を失っていると、感情処理がうまくできません。本当のことを言うなら、 感情処理をうまくできないようにするために、自分を周囲にあわせていると、自分の自由はなくなります。
感情処理をうまくしないとどうなるか。考えなくてもいいことを考えるようになります。すると時間がどんどん失われて行きます。この状態がそのときには楽なのです。

たとえば他人がジムで汗流しているときに、ゴロ寝。他人が試験勉強しているときに、漫才みて笑っています。それが好きなら好きで。自分の価値観だからいいのです。でも、それで幸福になれるのかどうか。お金のことを言うのではない。他者の自分への評価を言うのでもない。自分が本当にそれで幸福なのかどうか。

ところが、それでもいいと想う人がたくさんいます。自分の自由がなくなると安心することもあるからです。そして、自分の選択なのに、周囲のせいにして暮らす。だからいつもプンプン、感情的に判断して、感情的に選択して、感情的に生きて行く。
でも。実体がないから、自尊感情は低いままになります。
尊敬ではなく、人に好かれることで、その穴埋めをしようとする。すると周囲の顔色を伺うようなことになる。人気が気になる。意識はともかく従属的になる。それが不満になるので表向きとは反対に支配的になる。自分を引き裂くように内と外が違ってきて、自分の内に混乱が深まります。

学校の先生でも、尊敬されるより人気があることが重要視します。嫌われても尊敬される先生でいたいと気骨のあるひとはどんどん減って行く。会社でも家庭でも同じ。


安全への欲求はものすごく強い。それが人間です。だから、それを恥ずかしく考えることはない。でも安心と引換に失うものは大きすぎます。

自尊心を失ったら、なんのための安全・安心かということにもなります。なにを目標にするかはどうでもいい。自分がやりたいことを選べばいい。達成できなくてもいい。重要なのは自分が、いまこの瞬間、集中できるかどうかです。
目標設定ができない、したくない背景に、 感情処理の問題が絡んでいます。つまり目標設定しないことが感情的な行動なのです。

感情に預けなければ、目標設定は難しくない。達成のプロセスで間違ってもやり直せばいいことですから、うまくいかないことも問題ではない。

それでもなかなかできないのは、本来感情とは無関係なことを、つまり考えても仕方のないことの範囲に目標設定を預けてしまうからです。

たとえば、自分は朝6時にジムに行って、9時までに机に向かいます。
朝、起床したときに、なにも考えずにジムに向かいます。 考えたら、つまり感情に預けると、面倒くさい、ああイヤだと考えてしまうからです。だから考えずに、ジムまで行き、やるしかない状況に置いて、そこで身体動かし出すと、気持ちよくなり、机に向かったときには爽快感があります。ジムに行けば洗濯物も増えて、またユーウツが増えるけれど、やはり感情に預けないようにして洗濯だって毎日します。こうして 自分の弱点とつきあいながらメタボ対策をなんとか継続している。


目標設定も、それと同じだと思いますし、誰がやるのかを抜きにした計画はあり得ない。

自分の人生の主人公は自分だから、自分の目標を設定するときは、周囲のひとや、会社のことは無視しましょう。先々を考え過ぎて、できるかできないかも考えないことです。
できるから選ぶではなく、したいことを選ぶ。

たとえばケーキを作るでもいいし、資格をとるでもいい。「ケーキづくりは好きではないけど、こどものために作ってあげたい」・・・この発想は×です。
「こどもの笑顔がうれしいから、おいしいケーキが作れるようになりたい」・・・これは○ですね。似ているけど全然違うでしょう。資格も同じ。
「自分としてはあんまりだけど、会社の仕事に役に立つから」は×
「会社の仕事には効果ないけど、自分が興味あるから」は○
あるいは「会社の仕事に役立つので自分としてはどうしてもとりたい」は○

したいことを選んだら、したいことに自分の行動をあわせるしかありません。目標や自分の行動に、したいことをあわせることも、周囲のひとを合わせることもできません。ひたすら、ひたすら、したいことに自分の行動をあわせます。
ここで気をつけたいのは、自分を周囲のひとに合わせて、自分の自由を失っていると、感情処理がうまくできません。感情処理がうまくできないように、自分を周囲にあわせていると、自分の自由はなくなります。自分の自由がなくなると安心することもあります。
でもその安心と引換に自尊心を弱めてしまいます。小さな安心と引換に失うものの方が大きい。虎に追いかけられた猿が逃げ込む木を選ぶ余裕を失うのと同じ状況になっているからです。



だから、おすすめは、感情処理をうまくするためにも自分の自由を優先します。自分の自由を認めることは、周囲のひとの自由も認めるということです。誰にとっても24時間しかありません。ひとりひとりの24時間を大切に使うには、男だから、女だから、こどもだからと値引きせずに、相手に届くように伝えるようにします。それでも、どうしても無理なことがあります。その場合は我慢ではなく、それを受け入れます。お互いにそうです。自分の自由、周囲の自由を否定しないようにします。
目標設定ができる。それは自主自立の第一歩なのです。


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